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東京高等裁判所 昭和44年(う)1377号 判決

被告人 秋山勝行

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中百日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人山根伸右、同糠谷秀剛連名提出の控訴趣意書および被告人提出の趣意書記載のとおりであり、これに対する検察官の答弁は、東京高等検察庁検事海治立憲名義の答弁書記載のとおりであるから、ここに各引用する。これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

弁護人の控訴趣意第一について。

所論は、原判決には、審理不尽の法令違反があり、それが判決に影響を及ぼすことは明らかである。すなわち、

原判決は、被告人ら学生が何故本件行動に立ち上ったかにつき何ら目を向けることなく、その身体的動作のみをとり出し、安易に刑法的評価を加えているが、本件事案の真相を究めたものということはできない。学生らの立川基地拡張阻止行動は、単なる本件の動機ではなく、本件行動の本質あるいは核心そのものであり、この点について審理を尽すべきである。しかるに原判決は、右の点について全く審理をせずに、「被告人秋山勝行に対する量刑について」という項において「本件は立川基地拡張阻止運動の一環として、現地砂川地区で開かれた総決起集会後の集団示威行動としてなされたデモ行進中にひき起された案件である。云々。基地問題についても適切な解決の方途を見出すべく自由な論議を闘かわし、建設的な意見の開陳と行動により、その理想の実現を期することは、民主主義社会に於て当然なされなければならないところであり、そのための表現の自由は厳に確保されなければならないところであって、集団示威行動としてのデモ行進も亦表現の自由の一方法として、それが法秩序の許す範囲内で最大限の保護を受けなければならないことは論を俟たないところである。然るに被告人等は法秩序を全く無視し云々」と形式的に述べているだけである。かつて、一九五六年に立川基地の砂川地区拡張が計画されたが、広範な国民の反対と抵抗の厚い壁によって、一二年の長きに亘り、その計画は阻止されてきた。しかるに、米国のベトナムに対する侵略戦争が急激に不利な局面を呈するや、にわかに米国の日本における基地の必要性から、立川基地拡張の計画を再燃させたのである。日本政府は、日本国民の圧倒的な反抗を押し切って、米国のベトナム戦争に対し、兵器の製造、ベトナムに向う原潜の寄港を認めるなどによって協力するのみならず、かかる基地拡張にも協力し、積極的に加担していた。このような日本政府のベトナム戦争への加担は、多くの日本国民の生活に極めて脅威であることは、心ある多くの国民にとって自明であった。九州大学に墜落したファントム、沖縄基地で炎上したB52の例をとるまでもなく、立川基地においても一瞬にして多数の住民の生命を奪う危険性が内包されている。その他騒音、風紀問題等により、基地周辺の住民たちの基本的人権は侵害されている。このような危険と害悪を流す空軍基地をさらに人口の密集している市街地に向かって拡張するという、非人道的な計画が強行されようとしていた。第二次世界大戦の教訓として成立した日本国憲法の平和主義のもとに育った多くの若い学生諸君らが、基地拡張阻止の行動に立ち上ったのは当然であった。米国は、国際世論によってベトナム戦争における北爆を停止せざるを得ず、また米国内においても反戦の運動が強まり且つまた米軍兵士のなかで厭戦の空気が広がったため米政府はベトナムからの撤兵計画を実行せざるを得ない立場に追いこまれた。こうした状況と、一方日本国民の強い反対と抵抗の前に昭和四四年に至り米軍および日本政府は、立川基地拡張の計画を放棄せざるを得なくなったのである。このことは、学生諸君の立川基地拡張に対する抵抗の行動が正当であったことを証明している。以上のような点について審理を尽すならば、原判決の破棄は明らかである。然るに被告人らの本件行動の正当性について審理を尽さなかった原判決には、審理不尽の違法があり、それが判決に影響を及ぼすことも明らかであるというのである。

よって案ずるに、所論の立川基地問題、ベトナム戦争、国際情勢、政府の基地問題についての施策等は、言わば政治問題であり、なかんずく、日本国における米軍基地問題の如きは日米安保条約という条約上の問題であって、所論各問題については、日本国民の中にも相異なる種々の論議が存在することは周知のとおりであって、これらについて論議し、意見を表現することは言論、表現の自由として許されることは当然であるが、その自由なるものは何らの制限のない絶対的自由でないこともまた多言を要しないのである。所論が、被告人らの本件行動の目的、動機として掲げるところの如きは正に犯罪事実として指摘されている本件についてのいわゆる背景事実であって、それは被告人らの行為の意味を明らかにし、その違法性ないし責任の有無、程度を判断する資料として考慮されなければならないが、裁判所の審理の対象は直接には公訴事実の存否、そして被告人の刑責の有無程度である。また所論の動機、目的というものは前記の如き判断をするためにこれが取調べをするわけであるが、如何なる背景事実を、どの範囲まで拡げて審究すべきかは、事実審の裁量に委ねられているものというべきであるところ、記録を調査し、当審における事実取調の結果に徴しても、原裁判所が、ことさら背景事実の立証範囲をせばめるなどしてかかる点についての審理を尽さなかったと認むべき点は見受けられない。被告人ら学生の立川基地拡張阻止運動こそ、本件の本質ないし核心であるとして、その動機、目的の当否を法廷における審理の中心とし、熱中することは、法廷を政治問題討論、宣伝の場所としようとするに傾くのであり、法廷は固より直接政治自体を裁くべきところではなく、また、裁判とは被告人の言論や思想そのものの当否を裁判の対象とするものでもないのである。所論は、原判決は、被告人らの身体的動作のみをとり出し、安易に刑法的評価を加えていると非難しているが、そのようなことはなく、原判決は被告人らの本件行動の動機、目的を理解した上、それは公訴事実の如き法の規制に触れるものとし、その間被告人らの行動については何らの違法性阻却の事由もないとして有罪の裁断をしたものであり、原判決が本件動機、目的をよりよく審理したならば被告人らの行動は無罪たるべきであるというように考えるならばそれは主観的な自負に過ぎないというべきであろう。そもそもその動機、目的が正当であっても、その目的のための行動、手段がすべて正当化されるものではないことは至極明確であり、法秩序を無視した越軌且つ暴力的行動を容認することのできないことは、民主主義の基本原則に照らして明らかであって、今更多言を要しない。これを要するに、当審における事実取調の結果に徴しても、原判決が量刑の事情として説示しているところは、被告人の本件犯行に及んだ動機、目的等について正当な評価を下しているものと認められる。所論は、被告人らの行動の動機、目的について主観的な評価をなすに急であり、なおまた、被告人らの行動の成果を評価するについても諸般の情勢の客観的変化についての省察を怠っている嫌いがあり、かたがた理由がないことに帰するといわなければならない。

弁護人の控訴趣意第二について、

(一)  所論は、原判決は、昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下都条例という)が、憲法の保障する基本的人権である表現の自由を侵害し違憲無効であるのに、これを適用したのは判決に影響を及ぼすべき法令の適用を誤った違法がある。都条例は、次に述べる理由から違憲である。すなわち(イ)表現の自由が、既存の法律によって、すべての行為が同じ次元において制限を受けることは認めなければならないであろう。しかしながら、集団行動の制限それ自体を目的とした法である都条例は、その存在自体における違憲性を問わなければならない。(ロ)現在のふくそうした交通事情のもとにおいては、集団行動について、届出制を要請することは容認しうる、すなわち、集団行動地域においては、事前の情報によってこそ集団行動をするものと一般通行人との双方の権利の尊重の調整をなしうるからである。しかし、都条例は、文言上からも、実質上も許可制をとっており、必要以上に表現の自由を制限しているから、違憲である。(ハ)都条例は第二条において、七二時間前に許可申請をなすべき旨を規定しているが、それでは緊急の場合における集団行動を全面的に禁止するに等しい。また都条例第三条第二項では、許可処分の通知義務を規定しているが、公安委員会が不許可処分をしながら、その通知をしなかった場合、又は許否の決定が保留されたまま行動予定日が到来した場合、あるいは許可書を交付しなかった場合についての救済規定は存在しない。これまた集団行動を制限することとなるから、違憲である。(ニ)本来、罰則の委任というものは、憲法第三一条の規定する罪刑法定主義に対する重大な例外である。従って、法律の委任がある場合であっても、その要件は厳格に解されなければならない。都条例は地方自治法にもとづいて罰則を設けているのであるが、条例自体で犯罪構成要件と罰条とが明定されなければならない。また、条例自体白地刑罰法規であり、犯罪構成要件の充足をすべて公安委員会に対して再委任することは、地方自治法第一四条第五項がこのような再委任を許すことを明定していない以上、この意味においても、右都条例は憲法第三一条に違反するものといわなければならない。原判決は、都条例第五条のうち第三条第一項但書の規定による条件に違反する集団行動の主催者等を処罰する規定は白地刑罰法規であり、また条例への罰則委任の根拠規定である地方自治法第一四条第五項にはその文言上かかる犯罪構成要件の補充を許容する旨明記されていないと認めながら、都条例が、行政機関の制定する政令、命令と異なって、地方公共団体の「住民の代表機関である議会の議決によって民主的に成立するものであり、実質的には国会の議決を経て制定される法律に類するものである」という一点において区別し、都条例を正当化している。しかしながら、それだけの理由で白地刑罰法規の違憲性を免れしめることはできない。すなわち、都条例が委任するところのものはやはり公安委員会という行政機関なのである。地方自治法第一四条第五項は、かかる行政機関への罰則の再委任を許容する趣旨とは解せられない。原判決のこの点に関する判断は誤りであり、納得し難い。(ホ)次いで、都条例の運用の実態をみるに公安委員会の集団行動についての許可、不許可の決定は、公安委員会は名目上その決定者となっているだけであって、その実質は、警察警備係がそのすべてを管掌している。しかも、許可、不許可の基準およびその許可にあたって付与する条件は、学生諸君の行動に対し、暴徒としての偏見を抱き、取締ろうとしている警察官に委ねられていて、その恣意に左右されているのである。さらに、集団示威運動許可書に記載されている細かな条件に少しでも違反すれば、形式的な条件違反でも、ことあらば規制にとりかかろうという意図をもって「警備配置についている多数の機動隊が存在し、デモの行手にまちかまえて規制という名目をもって、表現の自由の制限をはかっているのである、都条例はその運用の実態に徴すれば、違憲といわざるを得ない。以上、都条例は、違憲無効であると主張する。

案ずるに、先ず所論(イ)(ロ)(ハ)の諸点を含めて、都条例が合憲であることは、昭和三五年七月二〇日の最高裁判所大法廷判決が判示するとおりであり、当裁判所もこれを維持すべきものと認める。そこで、所論(ニ)について検討するに、都条例第五条のうち、第三条第一項但書によって付された条件に違反して行われた集会、集団行進、集団示威運動の主催者、指導者、せん動者を処罰する規定(以下本件罰則規定という)は地方自治法第二条第三項第一号に明示されている「地方公共の秩序を維持し、住民および滞在者の安全、健康および福祉を保持すること」に関して制定され、同法第一四条第一項第五項に基づき限定された範囲内で刑罰を科するものであり、都条例第三条第一項但書第一号ないし第六号には、公安委員会が条件を付しうる事項が相当具体的に規定されていて、その内容と範囲は、予め明確に限定されているのであって、立法技術上すべてを条例自体で定めることは不可能であるばかりでなく、公安委員会をして集団行動の日時、場所、性格、進路の交通状況、参加人員などに応じ条件を定めさせるものとした方が、かえって秩序維持のための規制を合理的最少限にしぼることが出来るものというべきである。されば、本件罰則規定を単純な白地刑罰法規とみるべきではなく、またこれを所論のごとく再委任と解するとしても、地方自治法第一四条第五項の委任の趣旨を逸脱するものではないと認められる。しかも公安委員会が付した条件は、予め集団行動の主催者、指揮者等に了知されうるものであって、集団行動の行なわれる前に具体的に許可条件が示されることによって犯罪構成要件が補充され、集団行動の時点においては、どのような行動が許可条件として禁止されるものであるかが明瞭となるのである。これらの諸点に徴すれば、本件罰則規定は憲法第三一条の罪刑法定主義ないし適正手続の要請にもとるものでないと認められる。なお所論は、国家行政組織法第一二条第四項を引いて刑罰法規を法律以下の法令によって定めるには、法律の直接の委任を要する一つの根拠としているが、同条は、憲法第七三条第六号但書の規定を受けて、法律の委任がなければ罰則を設けることができないことを規定しているにすぎず、その委任内容が当該法律によってすべて直接規定されることまで要求している趣旨とは解せられない。この理は、すでに昭和三七年五月三〇日の最高裁判所大法廷判決が大阪市条例六八号違反被告事件について判示したところである。しかも右判決の判示するとおり「条例は、法律以下の法令といっても、…………公選議員をもって組織する地方公共団体の議会の議決を経て制定される自治立法であって、行政府の制定する命令等とは性質を異にし、むしろ国民の公選した議員をもって組織する国会の議決を経て制定される法律に類するものであるから、条例によって刑罰を定める場合には、法律の授権が相当な程度に具体的であり、限定されておればたりると解するのが正当である。」とすべきであって、この点についての原判決の判断には誤りはない。次に所論(ホ)について検討するに、「昭和三一年一〇月二五日東京都公安委員会規程第四号、東京都公安委員会の権限に属する事務処理に関する規定」「昭和三一年一〇月二五日訓令甲第一九号、東京都公安委員会の権限に属する事務の部長等の事務処理に関する規定」によれば、東京都公安委員会は、事務の迅速かつ能率的運営を図ることを目的として、集団行動の許可申請についての不許可処分、許可の取消処分等重要特異な事項は除外して、定例軽易な事項(許可にあたっての条件の付与を含めて)は警視総監以下の警察官に公安委員会名をもってその事務を処理させ、その結果を毎月とりまとめて公安委員会の承認を受けさせているものであるが、かかる事務処理の取扱を不当とすることはできない。すなわち、かかる事務処理の取扱は、行政機関としての公安委員会の権限行使のうえで、常套通例の事務の処理方法であると考えられるところ、公安委員会は、もちろんその許可を全部警察官に握らせているものとは認められないし、警察法第四四条、第四五条等によれば、都公安委員会は、都警察を管理し、その運営に関し必要な事項は自らこれを定めるものと規定している位であるから、公安委員会の事務の一部を警察官を手足として補助させることができないと解すべきではない。要はそれによって表現の自由が不当に制限されることがなければ差支えないと観察すべきで、本件では、不当制限のおそれは存在しないと認められるから、かたがた本件につき憲法違反があるとするが如きは、行政の実情を理解しない見解にすぎない。また、さきに述べたように都条例第三条第一項但書は、公安委員会の付しうる条件の範囲を定めており、これに基づいて具体的に条件が定められ、これが主催者または連絡責任者に通告され、この具体化された条件に違反した行為が、警告、制止および処罰の対象となるのであって、所論のように取締当局がほしいままに条件を定めることを許しているものとは云えず(このことは、昭和四四年一二月二四日最高裁判所大法廷判決の判示するところである。)、してみれば、所論のように、公安委員会が都条例によって集団行動について許可、不許可を決定するにあたり、その権限をすべて警察官に委任しているものとは認められないのである。しかして、前示昭和三五年七月二〇日の最高裁判所大法廷判決も「もっとも、本条例といえども、その運用の如何によって憲法第二一条の保障する表現の自由を侵す危険性を絶対に包蔵しないとはいえない。条例の運用にあたる公安委員会が権限を濫用し、公共の福祉を口実にして、平穏で秩序ある集団行動まで抑圧することのないよう極力戒心すべきこともちろんである。しかし、濫用の虞れがあり得るからといって、本条例を違憲とすることは失当である。」と判示しており、また、本件において、記録を調査しても、公安委員会がその権限を濫用し、また後述するように警察官が不当な規制をなしたものであるとも認められないのである。以上、都条例が違憲無効であるとの主張は、すべて理由がない。

(二)  次いで、所論は、都条例は、それ自体およびその運用においても違憲無効なものであるから、機動隊の都条例に基づく集団示威運動参加者に対する規制は正当な職務行為とはいえず、またのちに述べるように「基地内に侵入するという行為の制止」という職務についても、本件デモ参加者らは基地内へ侵入する意図は毛頭なかったから、右職務は前提をかくといわなければならない。いずれの意味においても、警察機動隊の職務行為は正当ではない。従って、原判決が一の(二)において、本件被告人らが公務の執行を妨害したものと認定判示したのは、刑法第九五条所定の「職務ノ執行」の解釈、適用を誤まったものであると主張する。

しかしながら、前段において述べたとおり、都条例は違憲無効ではないから、右所論は前提を欠き、さらに、後述するように「基地内に侵入しようとすることを制止する」ことを目的として機動隊が警備配置についていた点については何らの違法はなく、その他、原審記録を調査し、これに当審における事実取調の結果に徴しても、警察機動隊の職務執行について違法不当視すべきかどは見出し得ないのである。右所論はこの点においても前提を欠くものと言わなければならず、右所論は理由がない。

弁護人の控訴趣意第三について。

所論は、原判決には明らかに判決に影響を及ぼす事実の誤認がある。すなわち、原判示一の(二)において、「右参加者らが前記立川飛行場基地内に侵入することを制止するため、いずれも警備出動衣に防石面つきヘルメットライナーを着用して警備配置についていた」機動隊の隊列に対し暴行を加え、「もって右機動隊所属の警察官らの職務の執行を妨害した」と認定判示しているが、被告人ら学生には基地内に侵入する意図はなかったし、右意図を証明すべき証拠は全く存しない。機動隊の職務内容が、基地侵入を制止することにあったとする原判決の認定は誤りである。次に、原判決は「被告人秋山に対する量刑について」という項において、学生らの行為は、「付近住民に甚だしい恐怖と不安を与えた」と述べているがこの点についても何らの証拠もない。かえって、基地の公害等によって恐怖と不安を抱いていた付近住民たちは、被告人らの抗議行動を力強く感じたのである。また、原判決は、警察官の学生宮崎健一らに対する「規制」という名の暴力行使に対し一顧だにしていないと主張する。

そこで、案ずるに、原判決は罪となるべき事実一の(二)において、所論のごとく、「被告人秋山、同成島は、ほか五、六〇〇名の学生らと現場において意思相通じて共謀のうえ」、「(集団示威運動の)参加者らが前記立川飛行場基地内に侵入することを制止するため」警備配置についていた機動隊に対し、「かけ声をかけながら、中腰の姿勢で激しく突きあたりかつ押すなどの暴行を加え、もって右機動隊所属の警察官らの職務の執行を妨害し」た旨認定判示しているのであるが、右「(集団示威運動の)参加者らが前記立川飛行場基地内に侵入することを制止するため」というのは、機動隊の当日における警備配置についた目的を意味し、機動隊の具体的職務執行が適法であることを判示するものであって、所論のごとく被告人ら学生が右基地内に侵入する意図があったものと認定判示したものでないことは判文上明白であるうえ、原判決の掲げる各証拠に当審における事実取調の結果をも併せ考察してみても、右認定には何らの事実誤認は見当らないし、罪となるべき事実の記載としても犯罪構成要件を充足し何ら欠くるところはない。しからば所論は、単に当日における機動隊の警備活動が過剰警備であると非難しているに過ぎないというべきであるが、(証拠略)によれば、当日集団示威運動に参加した学生らの数は約三、〇〇〇人にも及び、その集団の経路は市街地であって、道路の幅員は集会場所から砂川七番交差点にいたるまでの五日市街道において約六・五メートル、同交差点から解散場所に至る間のそれは約九ないし一〇メートルでそれ程広いとはいえず、交通量も頻繁であり、基地に直面し、又は近接していること、また当日同一場所同一路線で別派の集会、集団示威運動が実施されたことも認められ、これを学生らが過去において実施した示威運動が常軌を逸して暴力に及んだことがある現実の経験等に徴すれば、地方的公共の平和と秩序を維持するため、不測の事態に備えて、警察機動隊が基地周辺の警備配置についたのは、けだし当然の職務行為と言わなければならないのである。しかして、当審における証人斉藤裕志の証言によれば、同人は原判示「砂川基地拡張阻止労働者学生現地総決起集会」を全学連と共催した三多摩反戦青年委員会の幹部であるが、右集会後の本件デモにおいて、反戦青年委員会に所属する労働者らの本件示威行動の目標は基地正面ゲート前に坐り込むことにあったことが認められ、原審証人小島勝視は、被告人は、原判示キリスト教会前でデモ隊を停止させたうえ、他の学生の肩車に乗り、「機動隊は政府ブルジョアジーのつくったものではないか。」「機動隊の壁を突破していこうではないか」等とアジ演説を行い、またシュプレヒコールの音頭をとったのち、笛を吹いて合図して先頭隊列が横に構えていた竹竿を持ちながら、待機中の機動隊に向かって激しく、デモ隊列を突きあて、押すなどしたが、同証人は、デモ隊が機動隊を突破して基地へ侵入するのではないかと思った旨、原審証人沢栗堯も、原判示第五ゲートに至る間において、「デモ隊が私達めがけて突込んできて、突き破って基地内に侵入しようとしたのではないかと思った」旨、原審証人田村義雄は、約三〇〇名の学生が二回に亘って基地第五ゲート前で警備に当っていた警察部隊に対し、隊列を組んで体当りをしている旨各証言している。これによれば、学生らが基地内に侵入する当初よりの意図の有無にかかわりなく、本件デモ隊は、勢の赴くところ基地内に侵入する事態に立ち至る危険性があったものと認めざるを得ない。従って、警察機動隊が不測の事態の発生に備え、基地への侵入を阻止しようとする目的をもって警備配置についていたのは蓋し当然であり、これを目して過剰警備であり、その職務執行が違法、不当である等と非難するのは、自らかえりみずして他を云為するものであって、首肯し得べき議論ではない。次に、前示司法警察員作成の実況見分調書および原判決の掲げる現場写真等によれば、本件デモ隊は沿道の桑畑や麦畑の農地や宅地内へ立ち入り、農作物を踏み荒し、あるいは棚を毀し、引続いて警察官に対し激しく投石し、沿道の商店ではシャッターを閉したことさえ認められる。そして、当審における証人砂川ちよは、学生らが現地砂川に参集し、基地拡張阻止を世人に訴えることはいいが、暴力行動に出ることを心配していた旨証言しており、被告人自身、当審公判廷において「砂川の反対同盟の人たちはあらゆる人たちの支援を求めるという立場をとっていたが、日本共産党の人達と学生たちがどうしてこんなにいがみ合うのか、学生同志の中にもどうしていろいろの対立があるのかというような点については、よく事情がわからなくて、そのためにいろいろな誤解が生じたことも事実だと思いますが、そういう点をほぐしながら農村の人たちとじっくり話し合っていく以外にないということで、いきなりデモをやろう、何をやろうというような運動方式をとらないで、まず反対同盟と全学連の融和をはかるということが運動の初期の段階の一番の中心点でした」、「特に砂川の人達からいわれていた点は、一つは飛行機が集会場のすぐ近くに来るわけですけれども、それに対して無暗矢鱈に石を投げたりする行動はしないでほしいということでした。………砂川町周辺には農地もあることだからデモの際に農地をきずつけないようにしてほしいということもいわれました。特に砂川では混乱を起こしてもらいたくないということを盛んにいわれました。………それから、反対同盟の人たちはデモに最初から最後までついて行くことはできないので、その周辺で拍手を送るからという話合いもありました。」と供述しているのである。これによれば、被告人らの本件犯行は、被告人らの行動について比較的理解を持っている立川市住民の希望に副うものとはいい得ずむしろこれを裏切ったものと言わざるを得ない。しかも、原判示のごとく、被告人は全学連の中央執行委員長として、本件デモ行進を指揮誘導し、デモ規制に出た機動隊員に、デモ集団を激突させてその職務の執行を妨害し、ためにデモ行進路上およびその付近の交通を甚だしく渋滞させたのであって、本件犯行の規模、態様等に徴すれば、本件において被告人らの行動の直接間接の結果として地域住民の平和と安寧を害したことに相違はなく、よって原判示の如く「付近住民に甚だしい恐怖と不安を与えた」と認めても強ち不当であるとはいい得ない筋合である。この点に関する原判決の認定は不正当ではなく原判決には、事実誤認のかどは存しない。さらに、当審における証人宮崎健一の証言によれば、同人は岡山大学の学生であったところ、本件デモに参加し、第一梯団の隊列の一〇列目位に位置していたが、原判示一の(二)記載の青柳道交差点附近において、学生集団が被告人の指揮に従って機動隊に激突したとき、長期間入院治療を要する頭蓋骨々折の負傷をしたことが認められるが、受傷の原因は明らかではない。そして、同人は警察官の警棒によって殴打されたのではないかというが、同証言を記録に現われた各証拠と対比してみても、単なる想像にすぎないといわなければならない。そうであってみれば、原判決が右宮崎の負傷の原因を究明しなかったからといって、これを非難するに当たらない。以上、原判決には、所論のごとき事実誤認は存在しない。

弁護人の控訴趣意第四について。

所論は、量刑不当の主張である。

よって、原審記録を調査し、これに当審における事実取調の結果に徴すれば、これらに顕われた本件犯罪の罪質、動機、態様その社会的影響、殊に被告人は全学連の中央執行委員長として約三、〇〇〇人にも及ぶ本件デモ行進を指揮し、激越なアジ演説をなし、警察官は国家権力の組織的暴力装置であるというような考えのもとに、折から警備配置についていた機動隊に対し、進んで積極的にデモ集団を激突させて、その職務の執行を妨害したばかりでなく、原審における相被告人らの機動隊に対する公務執行妨害、傷害等の各犯行を誘発せしめたものであって、被告人は本件集団犯行の最高指導者としてその責任は重く、およそその主義、主張を貫徹するために手段を選ばずして、敢て暴力的行動に出るが如きは現行法制の基本理念に反することは明らかであり、さらに被告人には、本件以前および以後を通じて原判示のごとき同種の前歴が多数見受けられること等に徴すれば、被告人の刑責は軽視することができない。所論は、原判決は被告人の本件前後における検挙歴を被告人に不利益な情状として参酌しているが、「被告人が別件により刑の言渡を受けた事実を刑の量定に参酌することは、右事件が未確定であっても、必ずしも不当ではない。」(最高裁判所昭和二五年五月四日刑集四巻五号七五六頁・東京高等裁判所昭和三三年二月四日高裁刑特報五巻一号三〇頁)という確定した判例があり、この趣旨は、たとえ未確定であっても、一審もしくは二審において有罪判決があれば、別件を情状として参酌することは必ずしも不当ではないといっているのであって、これは反対解釈として、別件が単に一審に係属しているという事実のみでは、いまだ無罪の推定は覆えされていないから、これを情状として参酌することは許されないと解すべきであり、加えて原判決は、単に検挙された事例をも情状として参酌しているのであって、これは刑事訴訟法上の原則および前記判例の趣旨からいっても明らかに違法であると主張する。しかしながら、所論指摘の最高裁判所の判決も「刑の量定は、事実審裁判所において、犯人の性格、年令、境遇並びに犯罪の情状及び犯罪後の情況を考察し、特に犯人の経歴、習慣その他の事項をも参酌して適当に決定するところに委されている」と判示し、昭和四一年七月一三日最高裁判所大法廷判決(刑集二〇巻六〇九頁)も、「刑事裁判における量刑は、被告人の性格、経歴および犯罪の動機目的方法等すべての事情を考慮して、裁判所が法定刑の範囲内において、適当に決定すべきものである。」「このように量刑の一情状として余罪を考慮するのは、犯罪事実として余罪を認定して、これを処罰しようとするものではないから、これについて公訴の提起を必要とするものではない。」旨判示している。しかるところ本件についてこれを見るに、原審において適式に証拠調がなされている被告人の前科調書および犯罪歴照会回答書、判決謄本によれば、原判示の被告人の前科前歴の存在はこれを認むるに十分であり、当審において取調べた被告人に対する判決謄本および弁護人の弁論等によれば、右本件後における検挙された事件のうち、被告人は三回に亘り公訴を提起され、いずれも、(都条例違反、公務執行妨害、傷害、住居侵入、兇器準備集合、公務執行妨害につき)第一審の判決があり、目下控訴審に係属中であることを認めることができる。しかるところ、原判決が被告人の右各検挙歴を本件の動機、目的および被告人の性格等を推知する一情状として考慮したものであるに過ぎず余罪を犯罪事実として認定してこれを処罰する趣旨で重く量刑したものでないのみならず、所論指摘の本件以後の検挙歴のあることを除外しても原審と同程度の量刑をなすべき事情をなすことに妨げはなく、しかして、被告人の当審における供述に徴してもいまだ自己の所為につき厳格適正な反省をしているものとは認められないのである。その他記録に現われた被告人の年令、経歴、性格、家庭の事情、健康状態等を十分斟酌してみても、原判決の被告人に対する懲役六月(求刑同八月)の科刑を目して不当に重いものとは認め難い。量刑不当の所論も理由がない。

被告人の控訴趣意について。

被告人の論旨は、その趣意において前記弁護人の論旨と帰するところは同旨であるから、これに対する判断は前叙弁護人の所論についての判断を引用すべく、なお、その上いささか附言する。

すなわち、所論は先ず砂川闘争の歴史的、社会的背景なる項を設け、被告人の観るところの砂川闘争の歴史的性格に説明を加え、被告人の参加した本件砂川闘争について言及し、砂川闘争についての歴史的、社会的評価には、より一般民衆の反応を基礎にしなくてはならないと結論し、原判決は全体をみないで一部分だけをとり出し、法律的尺度に機械的にあてはめて被告人に対し有罪を宣告し事足れりとしているが、裁判所の態度は政府に容認される限度での合法的請願行動のみに正当性を与え反政府的な傾向をもつことは厳に戒しめなければならないとするものである。原判決が「量刑について」なる項下において説明するところはきれい事であり欺瞞であるといい、被告人らの行動の正当性を強調することに帰するのであるが、被告人のような戦後史の観方もあるが、それは絶対多数の者の観方とはいい得ず、それよりも国際間における情勢の流動の端倪すべからざるものがあることに注目すべきで、それが各国の国内、国際間の動きに影響を与える力の大きいことに留意すべきであろう。しかしながら裁判所としては被告人の歴史観自体を批判し直接それを裁断するものではなく、ただ、被告人が如何なる考えに基づいて本件行動をなしたかを理解するように努めればよいのである。この点からいって、原裁判所は必要限度において被告人のいわゆる砂川闘争の歴史的、社会的背景なるものや、またそれに対する被告人の観方を審理し理解しているものというべきである。原判決は被告人の行動がその主張する如き理由に基づく反戦平和の要求からであっても、それならば何をやってもよいかというと、そうではなくやはり現行法制下において許容された手段、方法をもってしなければ違法として糾弾を免れない所以を説示したもので、別に法律の機械的あてはめをやったものでもなく、また、政府に追従し欺瞞を事としたものでもないと認むべきである。

次に被告人は所論において、警官隊のデモへの不当弾圧なる項下において「東京都公安委員会の許可条件の不当性」「警官隊の暴行」等ということについて論じている。すなわち所論は、原判決は都公安委員会が本件集団示威運動を許可するにあたって付した「行進隊形は四列縦隊とすること」「だ行進、ことさらなかけ足行進、停滞など交通秩序をみだす行為をしないこと」との条件は、道路交通事情や参加人員数に照らすと、公共の福祉との調和をはかるために本件集団示威運動に課せられた必要最小限度の合理的制約であると判示しているが、基地周辺の交通事情や住宅事情等がわるいのは基地があるためであり、結局政府の施策がわるいためである。公安委員会が付する条件を完全に守ることは不可能であり、それを忠実に守ったのではデモは所期の目的を達することはできない。そして、基地利益を表現の自由に優先させてはならず、そもそも集団示威運動は本来平穏裡に秩序を重んじて行なわれるべきだといって、表現の自由である集団行動を規制したのでは政府の企てた基地拡張を阻止することはできない。公安委員会が政府、自民党の番犬の役割を果たすために、交通秩序の維持ないし公共の福祉を口実として、政治的大衆運動の自由を弾圧するために付する右のごとき条件は、必要最少限度の合理的規制ではないなどと主張する。しかしながら、被告人の非難する都条例が違憲、無効ではないことは今更多言を要しないのみならず、右主張は、自己の主義主張を絶対視し、その主義主張を貫徹するためには現行の法秩序を無視し、どの様な手段に訴えてその反対運動をしても表現の自由の見地から差支えないとの考えを前提とするものであって、その誤まれる所以は改めて判断するまでの必要もなく、いわゆる独自の見解にすぎないから、すべて採用することはできず、所論指摘の原判示は相当というべきである。次に、被告人は所論において、機動隊は、デモ隊を併進規制に追い込もうとして待機していたのであるから、本件デモ隊がサンドウィッチ規制を拒否し、これに抵抗したことは正当である。またデモ隊が沿道の麦畑、桑畑に入ったのは、機動隊や私服刑事から追い廻されたからであり、麦畑や桑畑の作物に被害を与えた責任は警察官にあるなどと主張する。しかしながら、機動隊が予め本件デモ隊をサンドウィッチ規制しようとして待機していて、現にそのような規制方法をとったということを認めるに足りる証拠はなく、かえって、さきに判示したとおり、デモ隊は公安委員会の許可条件に従わなかったばかりでなく、ついに被告人らの激越なアジ演説に誘われて適法に職務についていた警察機動隊に激突し、自ら畑内に立ち入り、投石し、よって多数の警察官を負傷させ、そのため地域住民に不安と恐怖を与えたことは推認するに難くないのである。右所論は、自らかえりみずして他を非難する議論であって、採用し難い。さらに、被告人は所論において、原判決は、被告人が全学連委員長という肩書きを不当に重視して量刑しているものと思われるが、本件のごとき大衆運動は多数の人間の自主的な意思によって成り立つのであって、個人の意思や行動を全体のそれに優先させてはならない、すなわち、集団的、大衆的行動の評価にあたって重要なのは個人の「英雄的行為」などではなく、そこに実現された運動全体の理念と実体である。されば、集団中の特定の人にその全責任をなすりつけて、全体への「みせしめ」にしようとすることは許されない。また、原判決は、被告人が他の学生を衝動的に煽って、警察官に激突させ、あるいは学生らは被告人の行動に「誘発されて」「力を得た」などと判示しているが、本件闘争の全体を正当に評価せずに、個人の責任にすりかえて全体の正当性を否定しようとするものであるなどとも主張するが、しかしながら、大衆的行動において多数の参加者が自主的な意思によって参加した場合でも指導者の立場にあった者が処罰されないしは重く処罰されるということは他の刑罰法令においても規定されているところであり敢えて異とするには足りないのであって、被告人が本件示威運動において指導的立場にあったことは疑いがないのであるから、法規の定めるところに従い、処断されるのは致し方のないところであり、所論の非難は当らない。ひつきよう刑事責任ことに量刑事情は、犯情ことに当該被告人の共同犯行における地位立場を考察することは勿論、個別的に当該被告人の年令、経歴、性格、家庭の事情、反省態度等をも広く参酌し、法定刑の範囲内で適当に決定すべきであるし、しかして、原判決が本件集団事件について、集団における被告人の地位役割等を参酌したのは相当であり、また原判決は、被告人が全学連委員長の肩書きを持っているということのみで、特に不当な量刑をしているものとも認められない。右所論は理由がない。

以上これを要するに本件控訴は理由がないから刑事訴訟法第三九六条に則り、これを棄却すべく、当審における未決勾留日数の算入につき刑法第二一条を適用し、当審における訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用し被告人にはこれを負担させないこととし、主文のとおり判決する。

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